コラム

COLUMN

OUR HISTORY  <釜めしビクトリア>にてーー

ホテル、飲食店、病院、公共施設…。アダルの家具がはたらく様々な場所に密着し、そこで起きた出来事や人間模様を記録するドキュメンタリーです。今回は、福岡天神・新天町商店街にある「釜めしビクトリア」さんに密着しました。
(取材・文:白川 烈 写真:西澤真喜子)

「長い間、本当にお疲れさまでした」

ご主人がビールに口をつける前に、奥様がぽつりとそう言った。

4月21日、火曜日の午後二時。ホテルのロビーをコンセプトにした、二階席の一角に座っていたご夫婦。聞けば、40年以上勤めた会社を昨日退職し、そのお祝いで、ご夫婦ともにお気に入りのこのお店に来られたそうだ。

「もう60年は通っとるよ」自慢げにそう告げるご主人は、子どもの頃に母親に連れてきてもらって以来、ビクトリアに通い続けているらしい。鳥取県出身の奥様とは、21歳の頃にお見合いで出会い、結婚して福岡市で暮らしている。「天神に来たら必ず寄るどころか、ここの釜めしを食べるついでに天神に来ているくらいでね」奥様も、ご主人の母親に連れてきてもらったのがきっかけで、それからふたりで年に数回、ビクトリアで食事をするのだという。

「釜からこう、お茶碗によそうでしょ。そのたびにちゃんと蓋をしておくと、冷めないしお米がおいしいままなんよ」

ご主人はそぼろ釜めし、奥様はごもく釜めしを、初めて来たときから変わらず注文するそうだ。ふたりで分け合うこともせず、数十年、それぞれ同じメニューを食べ続けている。ただ、今日だけは、初めてビクトリアでビールを頼んだのだという。

「楽しいことばかりやなかったねぇ」

40年以上勤めあげた生活はどうでしたか、と訊くと、ご主人は笑顔でそう応えた。そして、しみじみと何かを振り返り、「うん、楽しいことばかりやなかったねぇ」と、再び同じ言葉を、同じ笑顔で口にした。

釜めしビクトリアの創業は、1954年。当時は、一階を喫茶店、二階を釜めし屋として営業していたそうだ。その後、釜めしが人気を博し、一階も釜めし屋として営業することになった。先のご主人のように、何世代にも渡って足を運ぶお客さんも多い。

もちろん、お客さんは日本人だけではない。一階の奥のテーブル席に、慣れない箸使いで釜めしをほおばる外国人のご夫婦と、日本人女性の3人組がいた。3人はアメリカ在住で、ご夫婦が旅行で日本に訪れるのに合わせて、友人である女性は、出身の福岡を案内しようと一時帰国したそうだ。

「せっかくの日本の食事で、ふたりに何を食べてもらおうか考えていたら、ふと思い出して。調べてみたらまだ営業されていたのでびっくりしました」

どう? ご夫婦にそう訊くと「オコゲ、モ、オイシイ」と釜の底でカリカリになったお焦げを見せてくれた。学生時代に通っていた店が、未だ営業していることに心底驚いて、嬉しくなったと女性は語る。

「二階の奥、窓際の席が好きだったんですよ。今日は人が多くて入れなかったけど、あの席から商店街を見下ろしながら食べてたなぁ」

店内は30年ほど前に改装し、上質で落ち着く空間となっている。改装時に、両階の椅子とソファをアダルから仕入れてもらったそうだ。30年前の製品だが古さは感じられず、むしろ空間に馴染み、調和している様が受け取れる。ソファのみ一度張り替えを行ったが、それ以外は今でも現役のまま、はたらきつづけている。

「昔はね、この商店街も屋根がなかったから、雨の日には地面が水浸しやったんよ」

午後三時ごろ、少し遅めのお昼ご飯に訪れた母子。赤いブラウスを着たお母さんは、70年ほど前、すぐ近くの大名小学校に通っていたそうだ。当時はまだ屋根がついておらず、木造瓦ぶきの二階建てが東西に並ぶ町並みで、雨の日には人通りが少なかった。1950年の大改装を機に、「降っても照っても新天町」というキャッチフレーズと共に、西日本初の大型アーケードとして生まれ変わる。

じゃあ、昔からよくビクトリアには来られていたんですか。そう訊くと、意外にもお母さんは、若い頃にはほとんど来たことがなかったという。

「母はひとりで仕出し屋をしていたから、昼間は動けなかったんです。私は祖母に面倒を見てもらっていたので、祖母によく連れて来てもらっていました」

だから、母が来れるようになったのは私たちを育て終えてからで、ようやく一緒に来れるようになったんです。娘さんが、懐かしい引き出しをそっと開けるように教えてくれる。今は下関で働いており、月に一度、実家に帰ってお母さんと一緒に食事をするそうだ。

「ここも、もうじき開発でしょ。不思議よね、子どもの頃は新しいものができることにワクワクしてたのに、今はさみしい気持ちの方があるの。もしかしたら、あの頃の大人たちもそんな気持ちだったんかねぇ」

ビクトリアが店を構える新天町が出来たのが、戦後まもない1947年。それから2回の大改装を経て、人々の暮らしに寄り添い、歴史と思い出を積み上げてきた。そんな新天町も、2030年代の開業を目指し、一体的な再開発が計画されている。その情報を聞いて、今のうちにとやってくるお客さんも多い。

長い年月を経て、積み重なってきた関係性は、町と人だけではない。ビクトリアの釜めしは、お米は島根県産コシヒカリを、具材のひとつひとつにも新鮮な国産素材を使用。それも、材料を一括して卸している業者に頼むのではなく、長年のお付き合いがある専門業者からそれぞれ直接仕入れている。そのぶん手間もかかるが、なるべく価格を抑え、よりおいしいものを味わってほしいという、先代から続く想いからだ。

ちょうどお客さんが掃けた夕方、料理長の左近允さんに、三階にある厨房を案内してもらった。釜めし専用のコンロは、全部で24個もの火口が備えられており、ピーク時はすべて稼働するという。中でも目を見張ったのは、客席の様子を映したモニターだ。

「釜めしは炊きあげるまで時間がかかります。かといって、お客様を待たせすぎるのも良くないし、手頃な価格で食べてもらうためには回転率も上げないといけない。モニターでお客様の入りを確認して、先にお米を炊き、具材を後から入れることで、炊き立てを素早く提供できるようにしているんです」

炊き時間は、すべて「勘と感覚」で調整するという職人技。ピーク時には24個もの釜が並ぶが、最適なタイミングを逃すことはないのだという。

それもそのはず、左近允さんは22年前、高校在学時に初めてビクトリアを訪れ、そぼろ釜めしをひとくち食べたところ感動し、そのまま就職したベテランスタッフ。現在のスタッフの中では最も歴が長く、何十年と続く味を守り続けている。

二代目社長の加藤さんがビクトリアに戻ってこられたのが、42年前。ファミリーレストランの店長を務めていた当時、先代である父親から「戻ってこないか」と連絡があり、承継を決心したそうだ。

「お店に立つと、皆さん『ごちそうさま』と声をかけてくださるんです。ファミレスで働いていた当時は、ありえないことだったんですよ」

事務所の奥から引っ張り出してきた当時の資料を眺めながら、加藤さんはしみじみとつぶやく。そして奇しくも、あのご主人と似たような言葉を口にする。 「もちろん、色々と大変でしたし、楽しいことばかりじゃなかった。でもお客様の声が心から嬉しくて、その声に応え続けたいなと今でも思っています」

創業72年。この文章をタイピングする指先は、その数字の重さに関係なく、いとも易々とそう打ち込めてしまう。

「孫はここのすき焼き釜めしが大好物で、遊びに来る日は必ずお持ち帰りするんです」と、一階のレジ前で待つご婦人。「博多で研修があって、それぞれ地方から集まったので今日が初めてです」とスーツ姿の男女4人。旦那さまの御用達で、今日は初めてふたりで来たという母娘。

今日もたくさんの人々が、炊きたての釜めしを口いっぱいにほおばり、笑顔で店をあとにする。テーブルを見ると、その誰もがまるで「ごちそうさまでした」と言わんばかりに、空になった釜に必ず綺麗に蓋をしている。何世代にも渡って伝えられ、繋がれ、守られ、積み重ねられてきた時間。町や人と同じように、家具もまた、そんな些細な時間を担うひとつの背景となっている。


釜めしビクトリア
〒810-0001 福岡県福岡市中央区天神2丁目7-144 新天町商店街

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